「死ぬ、この世の終わりだと思った」と職員
双葉厚生病院院長・重富秀一氏に聞く◆Vol.3


東日本大震災(被災地の現場から)
避難中、高校グランドで原発の水素爆発を目撃

 

――中断後、避難を再開した。

実際に避難を開始したのは午前8時30分、約1時間後に中断、再開したのは12時頃です。 その間、我々は病院の中で待機していました。警察官も疲れた様子でしたが。自衛隊 の方も大変だったと思います。なお、この間にも、帝王切開手術で今度は男児が誕生しています。

 再開後、点呼をやり直し、バス1台に必ず職員1人を付け、容態が悪い人がいる場合には医師が同乗しました。川俣方面にそれぞれ向かいました。

ベント中、屋内退避を命じられ、警察官も疲れた様子だった
(右、3月12日午前11時すぎ)、
避難再開後(左、3月12日午後0時30分頃)

(写真提供:双葉厚生病院) 。

 ――行き先は、一緒だった。

 結果的には、一緒ではなかったのです。でも出発時点では、「一緒の場所に、行っ てくれる」と信じていました。自力で動けない40人以外の避難は、3月12日の午後1時すぎくらいには完了、警察官と自衛隊は退去しました。

重症・要介助の患者さんなど40人については、残りの職員とともに「少し落ち着く まで待とう」と考えていました。

――皆さんは、すぐに戻って来ることができる、という認識で避難されたのでしょ うか。

 「警察が言うから、避難しようか」と。ぐずぐずとすねていても仕方がない。ですから、重症患者さんについては避難させるまでもないと考えていました。私たちは周 囲の状況をあまりつかめていなかった。後から知ったのですが、その頃、既に「炉心 溶融」などが起きていた。それを知っていたら、私たちもすぐに避難していたはずです。

 双葉町は津波の被害も受けていたこともあり、その頃までには住民も避難、周囲は 静かになっていた。病院の中だけに人がいる状態でした。どうもおかしい、と思って いましたが、本当に、この状況が分かったのは、県の災害対策本部にいた県立医大の教授からの電話です。「そんなに悠長なことをしている状況ではない」と言われたのです。

県の災害対策本部にいた、県立医大の教授とようやく電話がつながり、事態の 深刻さを知ったという。「炉心溶融などが起きていると知ったら、私たちもすぐに避 難していたはず」(重富秀一氏)。

 ――それまでも県の災害対策本部には電話をかけていたのでしょうか。

 はい、何度もかけていた。つながったり、つながらなかったり。つながる相手が、 担当の事務職員だったり、単に電話を受ける人だったり、その都度、違う。それでも、 「患者さんを避難させろ、というのであれば、救急車やドクターヘリが必要だ」と要請していた。

 重症の患者さんを40人搬送するのであれば、救急車は20台必要。当院にあるはずは ありません。ドクターヘリを使う場合でも、ヘリが到着できる近くの場所まで、どう やって患者さんたちを運ぶのか。やはり救急車が必要です。しかし、県は「救急車の 都合が付きません」と。そのやり取りを繰り返していた。埒が明かなかった。県立医 大の教授にも、何度も電話したが、本人とは話せなかったので、「重富から、電話が あったことを伝えてくれないか」と伝言を残しておいたのです。

 そしたら先生から電話が来たのです。先生も30回も、40回もかけたみたいで、それ でようやくつながった。「いったい、何をやっているのですか」と。私は、「全然、状況が分からない」と答えたところ、「今、そこ(双葉厚生病院)にいる状況ではない」と説明してくれた。それでようやく災害救助ということで、自衛隊のヘリコプターで脱出することになり、「ヘリコプターが到着する双葉高校のグランドに移動を」と 指示をもらったのです。

 それまでは、通常の避難だった。電話がつながった以降は、緊急脱出。だから意味合いが全く違ってきた。要するに、今度は自分の意思は無関係。だからもう後は指示に従って動くしかなかった。患者さんに負担がかかるとしても、自衛隊の車で運び、ヘリコプターに載せなければいけない。

 この指示がなければ、全員退去は決断できませんでした。40人もの重症患者がおり、 危なくて避難はできなかった。

寝たきりの患者は、4人で自衛隊の車まで運んだ
(左、3月12日午後3時すぎ)。
国道114号線は、双葉町から避難する車で大渋滞だった
(右、3月12日午後4時すぎ)


(写真提供:双葉厚生病院)。

 ――レスピレーターをつけている患者さんもいた。

 1人だけですが、レスピレーターも一緒に運び、ヘリコプターに乗せました。この時点で職員は56人残っていたので、助かりました。マットの上に患者さんを載せ、四隅を持ち、4人で患者さんを持ち上げ、病院の玄関まで運び、自衛隊の車に乗せる。 双葉高校で下ろし、ヘリコプターにまた乗せる。いったい病院と高校を何往復したこ とでしょうか。

 ――電話の際、医大の教授は、双葉厚生病院の状況をどの程度、把握していたのか。  我々が病院にいるとは思っていなかったのでは。何で今頃、と思いつつも、「つな いでくれ」と私が言っていたので、折り返し電話をくれたのかもしれません。教授からは、「原発の状況は、相当危ないようだ」などと聞いた。  全員退去を決め、自衛隊のヘリコプターの救援を待つため、双葉高校のグラウンドに移動を始めたのは、午後2時くらいだったと思います。何往復もしているその時に、 第1原発が水素爆発したのです。午後3時36分です。

 その時、避難誘導していた職員と患者の半分ぐらいは、双葉高校のグランドにいた ので、爆発を目撃しています。爆音はものすごかった。「死ぬかと思った」、「この世の終わりだと思った」と言った職員もいました。1号機爆発の時は、3号機爆発時よ りは放射能漏れは少なかったですが、建物の断熱材などか、白い粉がパラパラと降っ てきた。それを触った人もいました。幸い、後に行った放射線のスクリーニング検査 では、問題はありませんでした。

 私は病院の中にいましたが、「ドカン」とものすごい音がした。初めは、プロパンガスが爆発したのかとも思ったけれど、窓の外を見たら、白煙が上がっていた。

 爆発後は、避難を中断、屋内退避をした。その後、再開し、最終的に全員が双葉高 校のグラウンドに移動した時には、午後5時くらいになっていた。既に周囲は薄暗くなっていました。

 ヘリコプターにはストレッチャーが4台入ります。最後の方は、私と副院長、もう一人の先生が残っており、重症な患者さんが乗るヘリコプターについては1人ずつ同 乗しました。副院長は二本松へ、私ともう一人の先生は仙台に搬送されました。最後に残ったのは、それほど危なくはないものの、自力で動けない患者さん16人と看護部 長などです。「先生、いなくても大丈夫です」とのことで、看護部長に残ってもらったのです。ところが、その後、来るはずのヘリコプターが到着しなかった。

 ――それはなぜですか。

 理由は分かりませんが、職員9人と患者さんが16人、ほかに地元の老人保健施設の入所者などが取り残された。自衛隊の方も一緒に、双葉高校に1晩残る事態となり、 翌朝13日のヘリコプターで避難しました。
聞き手・まとめ:橋本佳子(m3.com編集長)



  2011年8月19日 提供:m3.com