Lesson36 


医療界 疾病予防を強調
国 税収絡み及び腰
業界や農家の利害も


5月31日は世界保健機関(WHO)が定めた「世界禁煙デー」。たばこに対する世間の目が厳しくなり、2年前には男性の喫煙率が初めて4割を切ったとはいえ、先進国では突出している日本。医療現場からは喫煙率削減が声高に叫ばれているが、抵抗も大きく、国の対策には一向に反映されない。税金や医療費といった“たばこの経済学”も交えての禁煙を巡る議論の最前線を追った。

「喫煙率の半減が(基本計画の原案に)含まれなかったのは残念」。18日夜、国のがん対策推進基本計画の原案を作る協議会の会合。広橋説雄国立がんセンター総長がこう切り出すと、ほかの委員からも「産業や農業と絡むので自治体が対策を取るのは難しい。だからこそ国の政策で位置づけてほしかった」「この問題を先延ばししておけるような時代ではないのだが」などと同調する声が相次いだ。

国立がんセンターによると、男性44%(2004年)、女性12%(同)の喫煙率がそれぞれ半減すれば、10年後のがん死亡率は男女合わせて1.6%減少し、喫煙率が4分の1になれば2.9%減ると算出されている。

消えた「半減目標」
「がんとたばこは切り離せない」と、4月の会合では「喫煙率半減」を原案に載せる方向で、いったんまとまった。しかし、その直後、日本たばこ産業(JT)が柳沢伯夫厚生労働相に抗議文を送り猛反発。結局、載せないことになった。原案もトーンダウン。今後取るべき方策として、5月7日の段階まであったたばこの価格改定(値上げ)や課税率アップは、18日には姿を消した。座長の柿添忠生日本対がん協会会長は「基本計画を閣議決定してもらうことが、まず第一」と苦渋の表情で語る。

政府の方針を確認する閣議の決定は、全閣僚一致が原則。たばこ事業法を所轄する財務省は「喫煙は自己責任。消費削減を求めるべきではない」との立場で、年間2兆数千億円のたばこ税に響くような基本計画には、反発する公算が大きかったからだ。全国のたばこ販売店や葉タバコ農家からのプレッシャーも大きい。

巨額の税収に対し、喫煙の影響で医療費がいくら余分にかかるかという試算も。1兆3千億円――。奈良女子大の高橋裕子教授を中心とした厚生労働省研究班がこのほど推計した、喫煙に関連する疾病で余分にかかる医療費だ。同省のデータベースによると、喫煙者は非喫煙者より男性で8.3%、女性で1.1%医療費が高く、05年度の国民医療費に換算したという。

喫煙擁護派から「たばこを吸わないことで寿命が延びれば医療費は増える」といった反論もあるが、高橋教授は「実際にかかった医療費を基に計算しており、信頼性が高い」としている。また研究班は、たばこの値上げは過去約40年間、数円単位で、物価の上昇分程度と指摘。欧米のような禁煙につながる急激な値上げの経験はなく、高橋教授は「一気に値上げすれば禁煙を試みる喫煙者は多いはず」という。

増える敷地内禁煙
一方で、禁煙者を増やすきっかけづくりにもしようと分煙や建物内の禁煙だけでなく敷地全体を禁煙とする医療機関も広がってきている。喫煙者が入院などをきっかけに医師や看護婦の勧めで禁煙することが少なくないといい、「敷地全体が禁煙ならば、より説得力がある」(大和浩産業医科大学教授)というわけだ。

大和教授らの調査では、全国の医学部80校と附属病院84施設のうち、敷地内禁煙の医学部は24校(30%)、附属病院は39施設(46%)。実施予定を含めると、将来医学部の約7割、病院の約9割まで広がる。「今後は実施状況を5段階で格付けして公表し、禁煙対策を促したい」(大和教授)という。

民間病院でも敷地内禁煙にするところが目立ち始め、禁煙タクシーしか入構させないと徹底した病院もある。

疾病予防の立場から喫煙率を抑えたい医療現場としては、国のたばこ政策は歯がゆいばかりだ。

日本赤十字広島看護大学の川根博司教授の調査では、都道府県医師会の7割以上が、国のたばこ政策に「疑問あり」と回答。特に、健康に対する注意表示の規定まで含むたばこ事業法を財務省が握り、厚労省に権限がないことへの批判が多かった。

大阪府立成人病センターの大島明所長は「厚労省がこの問題でリーダーシップをとれないのが現状。政治レベルでたばこ規制に取り組むべきだ」と話している。

数値目標で欧米は成果
男性喫煙率20%台に低下  日本、取り組み遅れ歴然

欧米では喫煙率の数値目標を掲げ、削減に取り組んでいる。英国が2000年に作ったがん対策のプランでは、取り組むべき課題のトップに、たばこ対策を挙げている。さらに数値目標として、プラン作成時に28%だった喫煙率を10年までに24%に減らす、と明確にうたっている。

米国も喫煙率の数値目標と進行状況を政府レベルで常にチェックしており、1970年代半ばに40%前後で日本の現状とほぼ同じだった男性の喫煙率は、04年には23%まで下がるなど、効果がみられる。

一方、日本は05年発効のWHOのたばこ規制枠組み条約を受け、受動喫煙対策などには力を入れ始めているが、不十分との指摘が多い。WHOなどの事情に詳しい国立がんセンターの片野田耕太研究員は「各国の担当者が集まる会合に出席すると、たばこが健康に悪いことの証明は既に終わっていて、いかに具体的なアクションを取るか、という段階にあることが分かる。日本の取り組みの遅れは歴然だ」と話している。
(桜井陽、石井敦)

ことば
▼たばこ規制枠組み条約  2005年2月に発効した。たばこによる健康被害の世界的な拡大を食い止めるため、各国が共通のルールの下で協調することを求めている。前文では、たばこの影響について「破壊的」と明記。各国は、公共の場での受動喫煙の防止や、広告に関する規制、パッケージの警告表示などが義務づけられる。また、たばこ需要を減らす措置の1番目として、価格と課税を挙げており、「特に年少者のたばこ消費を減少させるのに有効」と記載されている。

日本経済新聞 2007.5.27