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生き物の死が私の命を支える

大久保満男会長 「会意」

 評判となった映画「おくりびと」をテレビで観ました。死者に化粧し衣を着せ納棺する職業に仕方無く就いた若者が、遺族や死者と向き合い、死者を送るという仕事の意味に目覚めていく筋書きです。死者の尊厳を守る優しさ丁重さに満ちた納棺士の動作に、死者の在りし日を思い、遺族の精神が浄化されていく描写が評価されました。

  しかし、この映画の優れた点は、この若い納棺士が死者に触れるという仕事に慣れず悩み始めた時、仕事の師匠でもある社長が、ふぐの白子を焼きながら、若者にこれを食べろと薦め、「これは生き物の死体の一部だ。でも俺達はこれを食わなければ生きられない。でも美味いんだよなーこれが」という場面にあったと思います。

  目の前に横たわる死者も、生き残った我々も、生きている間は、他の命を食べていくしか生きることはできない。しかもそれを美味いと言って食べている厳然たる事実だけが死と生を分けている。この場面がなければ、私はこの映画を「死者をテーマにした単なる感動もの」としてしか評価しません。

  長い前触れでしたが、今回書きたかったことは、映画の紹介ではなく、まさにこの「動物の死を食べて生きている我々」という存在についてです。
  私は、以前から、我々歯科医師の仕事の究極の意味は最後まで食べられる人生を支えることにあると言ってきました。「食」には二つの意味があります。
 一つは、「命の流れを絶たない」、つまり、一瞬一瞬の新陳代謝によって流れ消えていく身体の成分を補い、その命の流れを絶たないために食べ続けること。
 二つ目は、他の生き物の死である食べ物は、我々にとって異物であり、本来ならばこの異物を我々の体が受付けられないはずなのに、それを消化・栄養できるのは、咀嚼によって食べ物の成分を姿のなくなるまで粉砕し、それを体内の消化器官に送り、その酵素によって異物の成分を消してしまう。牛肉であればウシの情報を消すことで初めて我々は、異物としてのそれを栄養分として受け入れる。それが食の意味である、と私は考えています。

  この食べることの根源的な意味を考察した書物が出版されました。同志社女子大の村瀬教授による『食べる思想』です。この考察の基本は「動物の死が私 の命に反転する」ことにあります。
  我々は、食べ物を動物の死の姿そのままで食卓に乗せるのでなく、(ウシの死体がそのまま食卓に乗ることはないのだから)私の口のサイズに合わせて、つまり一口サイズに切り、それを調理して食べている。しかしそのことによって、まさに我々は、動物の死の上に私の生が成り立っていることを意識することなく、食事を楽しむ。これは、生き物の死が全て一口サイズにされて店頭で売られているこの社会において、自分の生もまた意識されにくくなっていることを考える大切さを、この書物は示しています。

  ある評論家は、「人間がなぜ少しでも立派に生きようと考えねばならないのか。それは、多くの命をもらって自分が生きている以上、そう生きようと心掛けねば、もらった命に申し訳が立たないではないか」と言っています。
  最後まで食べられる人生を送ってほしいと、歯科医師が願う。そのことの中にも、このような事実が潜んでいることを、我々は考える必要があると同時に、いやそれ以上に、人間が傲慢にならないためにもとても大切な事実だと思います。
  そう言いつつ、「美味い」と言いながら食べる自分がいるという矛盾を生きるのが人間であり、とすれば、その矛盾を自覚し続けることだけが傲慢への道を歩まないことではないかと考えます。

2010.6.7 記事提供:日歯メールマガジン