安全な社会スイスのバーゼルにおける講演で、チューリヒの大学のボーベリー博士は、「人生とは睡眠に費やす時間と覚醒(かくせい)に費やす時間の合計だ」と笑った。人生について考える時、誰も眠っている時間を無視している。人生はそれぞれの意思で切り開くものであり、切り開けるものだと、私は信じている。しかし、よく考えると、これは覚醒している時に限ったものだ。

睡眠は意思でコントロールできるものではない。長く起きていると脳の疲労で眠くなる。夜になると体内時計の働きで自然に眠くなる。これらの2つの過程で睡眠が制御されていることを理論だてたのが、ボーベリー博士だ。

気力で睡眠時間を削って働いても、眠気のため能率が低下してくる。週末、多忙な翌週に備え、長く眠っておこうとしてもうまくいかない。深夜勤務の後は、疲れていても夜でないため熟睡は難しい。
睡眠は動物から受け継いだ生き物としての仕組みで、うまくつきあうのが得策だ。

私たちが眠りに関心を持つのは、歴史的にたぐいまれな安全な社会に生きているためだろう。夜が安全でない状況でぐっすり眠ったら危険だ。何が起こるか分からない。安心して眠れるのは、警察、消防、医療機関、発電所などの社会システムがあり、そこで夜も働いている人がいるおかげだ。

24時間社会の代表コンビニエンスストアも夜を守ってくれる人を支えるためのニーズがあって存在する。

十数年前、ドイツの病院で勤務初日の朝、睡眠医学の恩師マイアーエヴァート教授から「よく眠れたかい」と聞かれた。問診されているようで答えるのにとまどった。少しして、調子はいいかいというあいさつだということがわかった。

世界から伝えられるニュースでは、政情の不安定な地域の人や、戦禍や災害にあった人たちが、「不安で一睡もできなかった」と訴える。

「昨日はよく眠れたかい」「よく眠れたよ」。安心して生きていることを表す、このあいさつが私は好きだ。

(日本大学医学部精神医学講座教授  内山 真)
2007.6.24 日本経済新聞