注射と神経損傷


注射と神経損傷

「注射で神経損傷」の訴訟に注意を
注意義務を検討せず、「過失認定」のケースも

■神経損傷事例の増加

 採血や点滴などで注射を行う際に、神経を損傷し、RSDやカウザルギーを発症する事例が増えている。症状の内容や程度が患者の素因に影響される部分も多く、医療側と患者との関係がこじれてしまうケースも多い。中には、医療側が訴えられる事例もあり、裁判例も蓄積されつつある。裁判例の分析を通じて、どのような場合に医療側の責任が認められるのかを分析する。

■責任が認められるための要件

 医療側の責任が認められるための要件は、過失・因果関係・損害の存在である。

 まず患者に損害が発生していることが大前提である。何らかの症状が発生し、それにより治療費の支出や休業に伴って生じた逸失利益など具体的な損害が生じていることが必要となる。

 次に、過失の存在が必要となる。どのような場合に過失が認められるかについては、後述する。過失が認められたら、その過失と損害との間に因果関係が認められる必要がある。因果関係とは、「あれがなければこれがない」と言える関係が過失と損害の間に存在し、それが社会通念上、医療側に責任を負わせても仕方ないと思えるような関連性を有しているか否かで判断される。神経損傷に関する裁判例で、この因果関係が争点になったものは少ない。因果関係が争われた裁判例でも、患者の穿刺部に表れた症状は、神経を損傷した場合に想定される症状と矛盾しないという簡単な分析にもとづいて、因果関係が肯定されている。したがって、因果関係については、あまり争いになることなく認定される傾向があるようである。

■過失が認められるための要件

 最も重要な問題は、過失がどのように認定されるかである。過失が認められるためには、過失の前提となる事実関係が存在し、その事実関係に照らして考えると、医療側の行為が期待される注意義務に反していたと言えることが必要である。要約すると、@事実関係の存在と、A注意義務違反が必要と言える。

■事実関係認定の困難性

神経損傷事故は、多い日常数多く行われる採血や点滴に伴って生ずることが。したがって、どのような態様で施術が行われたのか、記録が不充分であることが多い。また、数多くの施術のうちの1つであるから、施術者の記憶も曖昧である。その結果、どのような態様で注射が行われたのか、事実関係を確定することが困難で、医療側と患者で事実関係の主張が相反する場合も多く見られる。

 健康診断時の採血で神経損傷が生じたかが争われた仙台高裁秋田支部平成18年5月31日の裁判例では、施術の態様(針を刺したまま血管を探る動作を行ったか否か)や、施術時の痛みの申告とその原因(神経損傷による痛みか、駆血帯による痛みか)について、患者と医療側の主張が異なっていた。裁判所は、結果として、患者の主張を採用した。裁判所が患者の主張を採用した根拠は、カルテなど直接的な証拠によったのではなく、主張内容の自然さなど間接的な証拠の積み重ねであった。

■注意義務が認められるための要件

この裁判例の大きな問題点は、事実認定のあり方よりも、その後の注意義務違反の認定の仕方にある。この裁判例では、注射により神経損傷が生じたという事実関係を間接事実から確定すると、その医療側の行為が、医療側に求められる注意義務に反したのかをまったく検討せずに、即過失ありと認定してしまった。

 前述の通り、過失を認定するためには、確定された事実関係を前提に、そこで行われた行為が行為者に求められる注意義務に反していたか否かを判断する必要がある。そして、注意義務が認められるためには、行為の結果を予見することができ、かつ、悪しき結果を回避することができなければならないとされている。したがって、注射事故についても、神経損傷の結果を予見でき、それを回避できるという事情の存在が必要となる。

 この点、献血時の注射による神経損傷が争われた大阪地裁平成8年6月28日の裁判例では、裁判所は、注射による神経損傷という事実関係と、その神経損傷と症状発生間の因果関係までは認定した。しかし、裁判所は、「前腕皮神経に関しては、静脈のごく近傍を通過している前腕皮神経の繊維網を予見して、その部位を回避し、注射針による穿刺によって損傷しないようにすることは、現在の医療水準に照らしおよそ不可能である」として、注意義務の存在を否定した。

■あるべき注意義務

 このように注射による神経損傷の裁判例は、注意義務についてほとんど検討していないような杜撰なものから、注意義務を全否定するものまで両極端に割れている。

 しかし、ネット上で公開されている採血のマニュアル等を見ると、神経損傷に対する配慮が記載されているものも散見される。それらを見ると、橈側<正中<尺側の順に神経損傷のリスクが高いとしているものが見られる。研究論文を見ても、「尺側皮静脈の外側には皮神経が橈側皮静脈の周囲と比べて明らかに多く分布した」「尺側皮静脈と肘正中皮静脈の分岐部には、検索全例で内側前腕皮神経由来の複数の皮神経が同部を囲むようにして交錯しながら走行する特徴が認められた」「静脈に近接する神経枝の径は約2.0〜2.9mmに達し、23Gの注射針の径を大きく超えており、同部が神経損傷の危険性が最も大きい領域と考えられる」「橈側皮静脈と肘正中皮静脈の分岐部は、尺側に比べると外側前腕皮神経由来の神経枝の総数が少なく、しかも太さが1.1〜3.0mmと細いため神経損傷の危険性は尺側よりも低いと考えられる」などとされている。

 上記の様な医学上の指針や研究成果を踏まえると、注意義務の内容も、あるべき注射の部位なども検討した、もう少し緻密なものが要求されて然るべきではないかとも考えられる。もちろん、どの部位に注射をするかは、注射の目的との兼ね合いで決まるので、杓子定規にどの部位にとルール化できるようなものではない。実際に手技が行われたときの事情を踏まえての判断となろう。

■素因減額

 なお、裁判例の中には、患者が有している心因的要員が症状の悪化に寄与しているとして、損害賠償額を減額するものもある。例えば、仙台高裁秋田支部平成18年5月31日の裁判例では、「痛みの持続・深化に控訴人の心因的なものが関与していることが強くうかがわれる」として、「損害額(略)のうち三割は控訴人の個人的要因が寄与したもの」であると判断した。注射事故の場合、心因的要素が関係していると思われる事例が多いため、損害額を判断する際には、素因減額(患者の元もと有する素因を理由に損害賠償額を減額すること)を検討する余地がある。

■事実関係を記録するための工夫

 また、過失を認定する前提として、事実関係を確定する必要がある。しかし、最初に述べたとおり、採血等は日常、頻繁に行われる医療行為であるため、充分な記録がなく、記憶も曖昧であることが多い。そのために事実関係の確定ができず、それが紛争を長期化させる原因となる場合もある。そこで、痛みの申告があったか否か、穿刺部位はどこかなどを簡単に記入できるようにカルテを工夫するなどの措置を執ることも一考の価値がある。

平岡敦(弁護士)

2014年3月18日 提供:先見創意の会